築地本願寺

Tokyo
DSC_0158

築地の成立ち

築地は家康の江戸入城後、日比谷入江を伊達政宗等に命じて埋立てし、土地を築いたのが、由来で「築地」と名前が付いた。銀座から徒歩10分位で大変便利な場所にある。かつては築地市場で日本いや世界で一番美味しい魚が集まる市場として大変栄えた。

築地市場の移転

そんな栄えた築地市場だったが、トラックの出入りの為の道路の便が悪い事と施設の老朽化より、平成25年に豊洲市場に移転し、今現在は築地場外市場で海産物や寿司を食べ歩き出来る東京の観光名所として海外観光客から人気の場所だ!

寿司の名店「寿司大」、「築地すし司兆」などは早朝からとびきりの寿司が安く食べられるため、観光客が朝早くから並んている。

築地本願寺

東京在住25年目にして初めて築地本願寺に行って参りました。日比谷線築地駅より徒歩30秒の好立地だ。

築地本願寺

東銀座より歩くも良し、新富町から歩くも良し、築地市場駅より歩くも良しと便が良いところだ。

今の築地本願寺は、1937年(昭和12年)に帝国大の著名な建築家がインド様式を建物の設計に取り入れた。

格調高くかつ重厚でお金の掛かった印象を受けたので、ちょっと派手過ぎ!木造の日本風が風雅で良かった。

と思ったが、石造りにしたお陰で、東京大空襲にも焼けずに残ったので結果的に良かったと思い直した。

今の場所に本願寺が移ったのは、江戸時代初期に発生した明暦の大火後、元の敷地に本願寺を復旧させる願いを出したものの受け入れられず、町割りの関係で海沿いの埋め立て地の築地(現住所)に建て替えられたそうです。

火事に振り回される運命なのね。(⁠+⁠_⁠+⁠)

本堂内部

京都西本願寺の系列だそうで、浄土真宗の東の総本山といったところです。

信長の野望の一向宗本願寺顕如

本願寺光佐(健如) by 信長の予防

大元は親鸞聖人まで遡ると歴史を感じてしまいます。

本聖堂を建築した当時の政教分離が進んだ大日本帝国においてすら、

全国の檀家が収めたお金や賽銭が、積もり積もって莫大な資本になるのかと、思うと浄土真宗は日本最大の信者を持つ宗教だと改めて感じます。昭和初期、浄土真宗の跡取り息子は、巴里で豪遊していたそうです。

私の実家も浄土真宗で小さい頃は少なくないお金を寄付していたので、それが全国から元気玉のように集まると、この建物が余裕で建てられるお金になるというのは、令和に生きる身からすると、

そんな金ないわー(⁠ ⁠;⁠∀⁠;⁠)と目がくらくらする思いです。

私が幼少だった昭和40年(1970年)頃でこのありさまなので、江戸・室町時代なんて、どんだけ宗教が力持っていいたんだよと突っ込みたくなります。しかも金融ビジネスまでやっていたのだから、最大野党が、電通・大手銀行・商社と巨大コングロマリットを作っていたぐらいヤバイ集団(鉄砲大量に持っていた)だったことがリアルに体感できました。

信長が比叡山を焼き討ちしたのは、当時の常識からすると神をも恐れぬ暴挙だったと言われていましたが、冷静になって考えると信長仏教の政治介入を防いだお蔭で、日本もイスラム国にみられるような宗教国家にならずに済んだと思うと、比叡山や、長島一向一揆の焼き討ちも一概に悪とばかりは言えないですね。統一教会問題・〇価学会のお布施問題などの次元ではなかったかも知れません。。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。(浄土真宗)

比叡山焼き討ち by 「歴史ハック」様

 ということで、信仰心の希薄な私の家族は、この後気持ちを切り替えて、築地で江戸前寿司をおいしく食べて帰りましたとさ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました