新宿の成り立ち

日本史

今や世界一の列車乗降客数(1日350万人)のギネス記録を誇る新宿駅ですが、かつては徳川家臣の内藤家の広大なお屋敷の一部であり、現在の新宿三丁目駅付近に宿場と追分(旅の分岐点)がありました。因みに京王線の始発駅もかつて、この付近にあったそうです。

初代内藤清成(弓の名手で家康の右腕)が、江戸入場した際、家康公より馬が一息で走っただけの土地を貰うとの約束を取り付け、内藤家お抱えの駿馬が代々木、新宿一帯を駆けに、駆け廻り22万㎡(なんと東京ドーム468個分)を拝領したとのエピソードです。お馬さんは、余りに頑張り過ぎたため、その場で息絶えたが丁重に祀られたそうです。内藤家が可愛がって育てたのでしょうね(涙)

新宿御苑は内藤家の屋敷一帯を明治になって天皇家に譲ったものです。

甲州多摩方面から、高井戸を経て江戸に登城する際は、新宿で衣服を改め、一休みしてから江戸城へ向かうのが一般的だったそうです。近くに高田馬場もあり、馬糞が良く落ちていたそうで、江戸百景の浮世絵にも描かれました。

新宿三丁目からだと外堀のある市ヶ谷・四谷まで2-3キロ位なので、一日40キロ歩いた江戸人からすると、ほんの一息ですね。

街道の北には、百人町(現新大久保)があり、伊賀忍者の末裔が鉄砲隊を組織して街道を防衛していました。。もう少し(2km)北に行くと、高田馬場があり、宿場の馬を準備する馬場になっていました。

江戸城に登城すべく街道を東にいくと、信濃町、四谷見附となります。信濃町の名前の由来は幕臣 永井尚政(信濃守)の下屋敷があったことによるそうです。因みに、永井信濃守には、内藤家の姫が嫁いており、新宿一帯をガッチリ縁者で抱えています。

あとがき

内藤家の長者風というか、上品な家風でやらかしの少ない(多少はあった)家だったと思います。ブラタモリだったかなのインタビューで、笑いながら屋敷の一帯を、ポンと差し上げたとおっしゃっていました。坪単価4000万円として、2.6兆円!!。イケメン過ぎますね、、

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