1996年 高田馬場 さかえ通り

Tokyo

上京して初めて住んだのが、高田馬場駅徒歩10分ほどの下落合にある高田馬場住宅(公団マンション)であった。毎朝エステーの本社横の、神田川の橋を渡り、さかえ通りの繁華街を通り抜けて出勤した。

高田馬場は、早稲田の学生さんの多い街であり、雑居ビルが多く住みよい所だ。学生ローンの看板がやたら目立っていた記憶がある。駅前にはBIG BOXというランドマークともいえるビルがあり、待ち合わせなどで良く使った。雀荘も多くあり、「たぬ 高田馬場店」で点5で遊んだ。時々銀玉親方(オーナー)も来店し、メンバーとして代打ちしてくれたりもした。

 さかえ通りには、キャバクラがあり、先輩に無理やり突き合わされた。はじめはいやいやだったが、次第にお作法にも慣れ、楽しく飲めるようになった。が、金はそれなりに飛んで行った。店には「ゆみちゃん」という、お気に入りの子もできた。「ゆみちゃん」は清楚系?な見た目だったが話し下手だったのか、若干お店の中では浮いていた。後から分かったが、ゆみちゃんは未婚の母で、子供さんを抱えて働いていたらしい。だいぶ貢いだが、ドリンク代が、養育費の足しになったのであれば、金の使いどころはそんなに悪くはなかったと思える。。

 将来の見通しが定まらない上に、お金も余裕はなかったが、キャバクラに通って、雀荘に通っていたこと今からを振り返ると、若さゆえの怖いもの知らずであった。

1996年当時、携帯電話が個人に普及し始めており、栄通り脇の携帯屋で、ソニーのジョグダイヤル式携帯So-206を手に入れて、遊んでいたことと、駅前のパチンコ屋コスモで初代CRルパン三世を打ちに行った事を思いだした。

追伸

30年ぶりに高田馬場を訪れてみたが、知っているお店も平成・令和の不景気の波に揉まれて大分入れ替わっていた。高田馬場の雀荘 たぬが、ひっそり閉店していた。街には中国語の看板が増えており、早稲田の学生街も中国に浸食されて来たようだ。

30年前に飛び込んだ東京にしがみついて来られたのは、ラッキーだったが、30年前に戻れたとしても、キャバクラと麻雀に嵌まったであろう。

同じ処をぐるぐる廻るラットみたいだと我ながら反省した。 

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