中間管理職の悲哀を片桐且元に感じる

日本史

 サラリーマンをやっていれば、上からは圧力をぐりぐり掛けられ、下からはギャーギャー突き上げを食らうことがままあります。特に中間管理職の課長さんは、会社からは、問題が発生した場合は責任者として都合よく使われる存在です。。

 いつの時代も自分の責任ではないのに、上から責められ、身内からは、経営側の犬だと罵られるような可哀そうな立場に立つ方が、います。

 真っ先に思い浮かべるのが、豊臣家家臣、片桐且元です。

 豊臣秀吉の家臣として、賤ヶ岳七本槍の一人として活躍し、その後外交官として、豊臣家と徳川家の間で活躍しました。

 江戸幕府を開設後、目障りな豊臣秀頼と開戦する口実を探していた徳川家康が、方広寺の鐘に刻んだ文字「国家安康」「君臣豊楽」が、家康の分断と豊臣の繁栄を図るものといちゃもんに言いがかりをつけ、豊臣家臣で、対徳川の窓口役となっていた片桐且元を呼びつけ、この釈明をどう付けてくれるのだと、以下の案を飲むよう怒鳴りつけたというものです。

 案1)豊臣秀頼の大阪城退去および国替え

 案2)豊臣秀頼の江戸参勤交代

 案3)淀殿の江戸人質

 当時の豊臣家としては、いずれも受け入れがたく、逆に片桐且元が徳川方に内通しているのではないかと疑われ、且元としては踏んだり蹴ったり、やっていられない心境であったと思います。

 豊臣の天下が終わって、徳川に頭を下げて生き残る道を選べば、50万石程度の大名として存続できたのかも知れませんが、淀殿が政治権力を握った状態では正常な判断はできませんでした。

 逆に、豊臣方が片桐且元を襲撃したことで、家康に開戦の口実を与えてしまいました。大阪冬の陣の際は、眼病を理由に隠居を願い出ましたが、許されず徳川方として参戦し、大阪夏の陣の20日後に病で死去しています。これは完全に心労によるものですね。子孫が明治期まで残って爵位を得られたのがせめてもの救いでした。

 いつの時代も、損な役回りで、辛い選択を迫られる方も多いかと思いますが、どちらも茨の道ってこともあるというお話でした。

 

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