260年の太平を確立した江戸幕府と戦乱に明け暮れた足利幕府の一番の違いはというと、幕府の直轄領の大きさ(財政基盤=軍事力)です。江戸幕府の直轄領400万石+良い金山銀山に対し、室町幕府(足利家)の直轄領は40万石程度だったと言われています。三代足利義満の時代は日明貿易で莫大な利益を上げたとされていますが、やはり直轄軍の足腰の強さの差は歴然としており、江戸時代を通じ、外様大名が幕府に戦争を仕掛けようという気にはならなかったと思います。
それに比べ、足利家自体の直轄領は1/10程度の40万石弱と極僅かな所領でした。それでは各地の守護大名も言うこと聞かないってものですよね。。一応足利家一門である、畠山家、斯波家、細川家、今川家の所領も広大なものでしたが、尊氏・義満などの強力なリーダーがいないときの、結束力は皆無と言ってよく、幕府の権威は利用したいが足利将軍の為に積極的に働こうという人は居ませんでした。
江戸幕府 | 室町幕府 | コメント | |
直轄領 | 400万石 | 40万石弱 | 足利尊氏が気前良く配り過ぎ |
存続期間 | 267年 | 236年 | 室町後期は政権として機能して いなかったが義昭追放1573迄で計算 |
首都(政府) | 江戸(江戸城) | 京都(室町花の御所) | |
文化 | 元禄文化、化政文化 | 北山文化、東山文化 |
という訳で各地の守護大名は100万石以上の大名もごろごろしており、幕府の言うことには従わなくて当然!というような風潮でした。その結果は皆さんご存知の通り、京都以下全国各地、戦乱に次ぐ戦乱で、国土は荒れ、庶民に文化は根付きませんでした。
一方江戸幕府はその軍事力を背景に二代徳川秀忠の時代に武家諸法度という、大名が守るべき法律や禁を確立させ、大名の統制に成功し、長く平和な世の中が続いたことにより、元禄・化政文化をはじめとする世界初の庶民文化が花開きました。
ちなみに二代目徳川秀忠というと、戦に弱い真面目なお坊ちゃんというイメージがついていますが、実際のところは、物凄く冷徹な性格であったらしく、決まりを破る奴は許せないとばかりに、武家諸法度や幕府の決まりを破った大名をかたっぱしに改易しています。秀忠の時代の改易数が41家と江戸時代を通じて一番でした(福島家50万石、肥後加藤家52万石の改易は有名)。戦に弱くて生真面目というのは事実ですが、権力を握ってからは歯向かうものは許さないとう冷酷さを遺憾なく発揮しています。
初代徳川家康も、江戸幕府を長く続かせる事を死ぬまで考えており、代表例と言えば、大阪冬の陣、夏の陣による、豊臣秀頼を討伐したことにより、徳川家の反対勢力の要を滅ぼしています。徳川家康は鎌倉幕府の創業者である源頼朝公を尊敬・研究しており、自分の反対勢力である源氏の嫡子(頼朝)を殺さなかったため、後に滅ぼされるという平清盛の失敗を繰り替えさないことを歴史で学んでいます。
賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶといいますが、家康は歴史に学んで、江戸の繁栄を確立したのですね。。
だからといって、相手にトドメの一撃をはなった方が良いかは、令和の時代の私には判断付かないですが、人情にほだされて、頼朝を逃した平清盛も私は好きです。
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