江戸に残る 加賀前田家の地名

日本史

加賀 前田家は、外様大名として最大の119万石(前田庶家全体で)を誇る雄藩であり、徳川御三家と縁戚も深く、源氏・松平姓を許されています。江戸庶民にとっても天下の前田家として、人気の高い藩となります。

 当然江戸の藩邸(本郷一帯)や膨大な家臣を抱えた事から家来衆の下屋敷も多く、それに由来した名所・町名が今も東京に点在しています。加賀町と名の付くのは大概、前田家関連です。

1)東大赤門:11代将軍家斉の娘を前田家に嫁がせる際に建立したもの。文京区本郷一帯が前田家の上屋敷であった。

2)市ヶ谷加賀町:江戸初期の藩主夫人の屋敷があったことに由来。現在大日本印刷が所在する。

3)板橋区加賀町:下屋敷として、板橋に広大な敷地を拝領。仲宿や十条に隣接する。この縁で板橋区と金沢市は文化的に提携している。多分中山道の最後の宿ということで、何かと前田家とのゆかりがありそう。

4)目黒区駒場公園:旧前田侯爵の邸宅のあったところで、公園や旧侯爵邸跡がある。明治になっても大一等の華族(庶民のあこがれ)だった風格が偲ばれます。

旧前田侯爵邸

 個人的な所感ですが、加賀前田家は江戸時代を通じて幕府に難癖を付けられないよう、無難に生き残ることが最大のミッションとなり、誼を結ぶため徳川家との縁戚が深くなってしまったため、幕末の動乱期でも幕府を裏切ることができずに存在感を発揮できずに終わってしまった感があります。家格も高く江戸庶民からは人気があり、前田家の参勤交代は江戸庶民も見物したと伝えられていますが、大藩の割に管理人が知っているエピソードが少ないと思いました。前田利常公などは幕府に睨まれないためにあえて馬鹿者を装ったとされており、家康も利常を隙きあらば殺そうと思ってたらしいですが、この人が二代目藩主だったら面白いですね。

あとがき

歴史学者で有名な「磯田道史」先生が映画「武士の家計簿」で描いたのが加賀藩の勘定方の家のことでした。幕末の前田家は、しがらみが多すぎて思い切った活躍ができなかったねぇ。そのしがらみの重さを抱えて幕府側・新政府側にとって極端(過激)な結果にならないというのが、前田家の歴史の役割だったように思えます。

映画「武士の家計簿」

戦をするより、そろばん、そろばん。

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