太田道灌と江戸城

日本史

太田道灌(太田資長)は、1432年誕生〜1486年没で関東管領職の補佐である扇谷上杉家宰として活躍し、江戸城を築城した人物として有名だ。関東の戦乱(応仁の乱前後)を主家に頼らず戦い抜き、文武両道で名を馳せた。戦っては少数で大軍を倒し、外交・凋落も抜かりなく、又築城の名手という、反則級のチートキャラであり、享徳の乱、長尾景春の乱はほぼこの人の力で解決されたと言ってよい。

一般的に有名な肖像画実際のイメージ(信長の野望 天道)

道灌は小さい頃から、頭は切れるが親の言う事に対しても納得行かない事は言い返すと言う、鼻っ柱の強い性格だったそうだ。恐らく自分に厳しく、他人にも同じくらいの厳しさを求める、触れると切れる「抜き身の刀剣」のような人なのではないかと思われる。そんな子供であった道灌が鎌倉五山や足利学校に通って学問・兵法・外交を学んだものであるから、○〇に刃物、いや、鬼に金棒であり、希代の名将が関東武蔵の地に爆誕した。

道灌が築城したころの江戸というのは、水はけの悪い芦原の中の小さな漁村であり、徳川家康が日比谷を埋め立てして関東の首都として町を整備し直したのは有名な話だ。道灌が築城時に掘った井戸から「吉祥増上」という金印が出たきっかけで吉祥寺が出来たというエピソード(元祖吉祥寺は駒込に有る)は割と有名。

KAGAWA-GALLERY-歴史観より転載

永享の乱で勢力を伸ばした古河公方に付いた千葉氏を牽制するため、江戸城を築いた。父太田道真が築いた要衝の川越城と合わせて、千葉氏を抑える防衛ラインをガッチリ構築した。川越市もゆかりの人物として道灌を推している。

主家扇谷上杉氏も、太田道灌を頼る割に、活躍しすぎるのを疎ましく思うため、道灌としても気の休まらない一生だったと言われている。

道灌55歳の年に、風呂場で主家「上杉朝定」の放った刺客により暗殺された。その際遺した言葉は「当方滅亡」とされており、この言葉からも上杉家を支えているのは実質私だ、という自尊心の強さがうかがえる。実際そうだった。

辞世の句「刺客との合作」

 掛かる時こそ命の惜しからめ(刺客)

 かねて無き身と思い知らずば(道灌)

刺客が、どうだこんな時こそ命が惜しいだろう!と上の句を詠んだのに応え、俺の命など端から無いものと思って生きて来たと下の句を返したというなんとも涙を誘う内容だ。

道灌の死を切っ掛けに、主家扇谷上杉が混乱したのに乗じて、関東管領山内上杉氏との戦いが勃発し、関東は混乱を深めていく。(道灌暗殺をそそのかしたのは、山内上杉氏(上杉顕定)とも言われている。)

道灌が亡くなると山ノ内上杉家と扇谷上杉家は関東の主導権を巡って対立し、長享の乱と言う戦いとなった。

道灌を排除した山ノ内、扇ヶ谷、両上杉氏は、60年後に、川越夜戦にて北条氏康に負け、関東から追い出されている。

身内で揉めてばかりいるとこんな事になるという歴史あるあるだ。

あとがき

江戸を掘って行くと、どうしても突き当たるのが太田道灌先生であり、その苛烈で報われない人生を観ると、胸熱な想いになる。もう少し、主家に気を使ってうまくやれなかったのかと思わなくもないが、歴史にもしもはない(⁠ ⁠;⁠∀⁠;⁠)

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