滝川一益の関東支配

日本史

関東戦国時代は、1582年の滝川一益の関東侵攻により一旦終焉したといって良い。

関東の諸大名も信長の圧倒的な戦力を前に、滝川一益の元に、降伏した者が多い。その直後本能寺の変で織田信長が倒れなければ、厩橋城、箕輪城を押さえた滝川一益の関東支配は盤石だっただろう。

滝川一益という武将は織田政権下でTOP4の軍団長に入る程、優秀な武将だったが、信長が亡くなった後の行動を見るといまひとつぱっとしない。滝川一益は、信長配下武将として、

「退くも進むも滝川」

と呼ばれるほどの柔軟性と調略の旨さ、鉄砲の扱いを発揮しているが、自分が大将となったとき、彼の個性を発揮できていない。

羽柴秀吉ほどのすざましい政略を誰もが出来るかと言えば、それは無理な話だ。秀吉ほど辛い幼少期を送らないと、その反動で日本一の成り上がりを見せることが出来なかったのは当たり前のことであり、敵に囲まれた上野から地元伊勢迄、木曽氏の足止めに会いながら無事帰還できたことをもっと評価しても良いのだろう。

一益があと2-3年早く関東支配を早く始めていたなら、腹を括って関東・信州を地盤に一大名として、伊達・芦名・佐竹氏と同盟し北条とやり合う可能性は合っただろうが、関東に領地を貰ったばかりでまだ地盤が弱かった!

関東に五代続いた北条氏直、北条氏照、氏邦との「神流川の戦い」では、5万もの大軍に対し1万8000の滝川軍が惨敗しているのはある意味当然の結果と言える。

茶の湯が好き、能好きな戦国武将が自分らしく生きた必然の帰結だったと感じた次第だ。

風流を愛し、又関東の諸将の覚えも良かった事からカラッとして人好きのする良い武将だったのは間違い無い。

一益の関東管領「関東取次役」の役割は半年程で終わりを迎えたが、関東戦国史の終盤に大事な1ページを刻み込んだ。

<余談>

前田慶次郎利益「通称 前田慶次」も滝川一族であり「花の慶次」では、厩橋近郊上州で愛馬「松風」と出会ったり、後に直江兼続の陣営で北の関ケ原「長谷堂城の戦い」に出陣したり、関東戦国史に馴染みのある人物である。

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