和歌と日本人

世界史

初めに

和歌とは、上の句(5音、7音、5音)、下の句(7音、7音)から成る、古く(7世紀)から日本人に愛されてきた、短い詩だ。

和歌の歴史

古くは飛鳥、奈良時代より漢字が伝来した直後から話し言葉「万葉かな」等で読まれ始めた。中国の漢詩に倣って、日本も詩を詠むことが次第に広がった。

高貴な身分から庶民に至るまで、自分の気持ち(心持ち、魂の叫び)や、季節、自然の風景を織り交ぜて5-7-5、7-7の音で唄う事だけが、決まりとなっている。

飛鳥、奈良時代

663年、白村江の戦いの前後、九州に防人として派遣された身分の低い一兵士や、戦争時の天皇「天智天皇」の妻である額田女王等が自分の想いを歌にしたためている。

白村江の戦い額田女王
  • 額田女王「にきにたつ、船乗りせむと、月待てば、潮も適ひぬ、今は漕ぎ出でな」訳、白村江の戦いに先立ち、戦勝祈願として熱田の津に月が出るのを待っていた所、潮がいい感じになってきた。漕ぎ出す(戦いに出る)のは今よ!
  • 防人の歌「からころも、裾に取り付き、泣く子らを、おきてそこなや、母なきにしても」訳、衣服の裾に取り付いて泣く子供達を置いて来てしまったよ。面倒を見てくれる母はもういないと言うのに。

そして早くも奈良時代末(759)年に、大伴家持が飛鳥時代から奈良時代に掛けて詠まれた防人の詩を万葉集に収集した。万葉集最後の歌も家持が詠んだ。

平安時代

平安時代となり、都が奈良から京都に移ると政治の道具として和歌は益々盛んに読まれる事になった。

平安時代の初期(995)年に、醍醐天皇の勅命により紀貫之らが、「古今和歌集」で平成初期に詠まれた名歌をまとめた。古今調の特色は短歌が多く、七五調、三句切れを主とし、縁語、掛詞など修辞的技巧が目だつとのこと。

  • 在原業平「世の中に、たえて桜の、なかりせば、春の心は、のどけからまし」
  • 小野小町「花の色は、移りにけりな、いたづらに、我が身世にふる、眺めせし間に」
  • 紀貫之「袖ひちて、結びし水の、こぼれるを、春立つけふの、風やとくらん」
  • 紀友則「久方の、光のどけき、春の日に、しづ心なく、花のちるらむ」

平安時代後期(1205)年になると鳥羽天皇の勅撰和歌集として、藤原定家らに新古今和歌集の作成を命じた。「新古今調」といえば、唯美的・情調的・幻想的・絵画的・韻律的・象徴的・技巧的などの特徴が挙げられる。

  • 藤原定家「見渡せば、花も紅葉も、なかりけり、裏の苫屋の、秋の夕暮れ」
  • 西行「願わくは、花の下にて、春死なむ、その如月の、望月の頃」
  • 式子内親王「いま桜、咲きぬとみえて、薄くもり、春にかすめる、世の景色かな」

鎌倉時代

平成末期から、鎌倉初期に掛けて、藤原定家が京都小倉の山荘(別荘)で、当時の名歌を一人一句として百句を集めたのが小倉百人一首だ。余談だが、小倉小豆の起源も今日小倉近辺で大納言小豆が多く収穫されたのが起源だ。この百人一首で選ばれた句の上の句を読み上げて、和歌が掛かれたカルタを取る遊びが、現代にも続く「カルタ取り競技」につながる。実家にも百人一首のカルタはあったが、何やら難解でエキゾチックな絵柄だな~と子供心に感じたものだが、50歳を過ぎるてようやくその風雅な感じに親しみを覚えるようになった(大人になったものだ)としみじみ感じる。

室町、戦国時代

室町、戦国時代になると、日本各地で戦乱が盛んとなり、人生の最後に自分の今の心境を句にしたためると言う「辞世の句」が流行した。というより、以前から辞世の句は存在したが、壮絶な時代となったため、戦国時代の人の生き方が歌に強く反映される様になった。

  • 太田道灌「掛かる時こそ、命の惜しからめ、かねて無き身と、思い知らずば」訳、どうだ、こんな時こそ命が惜しいとおもうだろう?(刺客初句)、普段から俺の命など無いと思って生きてきたよ(道灌返句)<太田道灌と江戸城
  • 上杉謙信「四十九年、一睡の夢、一期の栄華、一杯の盃」訳、謙信の49年の人生など、一睡の夢の様な短さだった。一時の栄華など、一杯の盃の様に儚いものだ。
  • 毛利元就「友を得て、なおぞ嬉しき桜花、昨日に変わる、今日の色香は」訳、友人を得て、凄く嬉しかったよ。桜花の香りも昨日と違う様で、今日どの様に香るか楽しみだ\(^o^)/
  • 徳川家康「うれしやとふたたび醒めてひと眠り、浮世の夢は暁の空」

江戸期

江戸期になると季語を入れない、狂歌、川柳が流行した。又上の句だけで、今の瞬間を切り取った俳句が、松尾芭蕉により産み出され、大いに流行した。奥の細道は俳句集として一世を風靡した。

幕末の動乱期になるとまた、和歌や漢詩に自分の気持ちを表すのがまた盛んとなった。

  • 吉田松陰「身はたとい、武蔵の野辺に、朽ちぬとも、留め置かまし、大和魂」訳
  • 高杉晋作「面白き、事もなき世を面白く、すみなすものは、心なりけり」
  • 近藤勇、漢詩「摩他今日復何言 取義捨生吾所尊 快受電光三尺剣 只将一死報君恩」訳、敵に降伏して言うべき事は何も無い。
  • 武市半平太「再びと、帰らぬ歳を、儚くも、今は惜しまぬ、身と成りにけり」生を捨て義を取るのは私の尊ぶ所だ。斬首を快く受け入れよう。死を持って主の恩に報いるのだ。
  • 西郷隆盛「二つ無き、道にこの身を捨て小舟、波立たばとて、風吹かばとて」訳、〈共に入水自殺を図った月照への返句として〉

明治〜令和

西洋科学を取り入れて行く過程で、和歌の重要性は次第に薄れていくが、天皇家は和歌を伝統的に詠む事が続けられた。

  • 明治天皇「おごそかに、たもたざらめや、神代より、受け継ぎたる、うらやすの國」
  • 大正天皇「しばらくは世の憂きことも忘れけり、幼き子らの、遊ぶさまみて」大正天皇は知性に問題があったと言われることもあるが、和歌の面では大変感性が豊かな方であり、和歌の専門家からは独特の感性を高く評価されている。カタツムリについて唄った詩等。
  • 昭和天皇「天地の、神にぞ祈る、朝凪の、海の如くに、波たたぬ世を」
  • 平成上皇「濁流の、流れる樣を、写し出し、テレビを見つつ失せしを悼む」西日本豪雨で広島地域の被災者を心配されて詠まれた句。
  • 令和天皇「世界との、往き来がたかる、世は続き、窓開く日を、ひとへに願ふ」

歴代天皇家と和歌は切っても切れない関係であり、今後もこの伝統は千代に八千代に続いていくだろうし、日本人ならこそ、それを大切にしていきたいと改めて思った。

ちはやふる

平成になり、少女万葉でかるた取りの競技を描いた少女漫画「ちはやふる」(主人公、千早)がきっかけになり、世界的にがブームとなりつつある。フランスでもファンが多いとの事だ。和歌・俳句は日本を飛び出して、英語・フランス語などで、自由に親しまれるようになってきた。形より自分の今の気持ちをみずみずしく切り取って表現するというのが和歌の神髄と言える。

あとがき

この様に、日本の歴史、ながるるも、和歌の心は、わすられぬ成り

と一句詠みたくなるほどに、日本の歴史、人々の暮らしに和歌は根付いているのだ\(^o^)/

やはり

日本は言霊の國と言うだけの事はある!

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