鎌倉公方とご当地公方

お江戸探訪

 令和4年に放送された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の反響でも判るが、鎌倉、室町時代が人気だ。

ドラマでも描かれた様に、坂東武者とは詰まる所、武装組織の集まりであり、気に入らなけば、力づくで解決して自分たちの縄張りを護ってきた由緒のあるヤクザみたいなものだ。が、単に武力だけがあってもダメで、各ヤクザの上には上位組織「鎌倉府」(関東武士をまとめる機関があり、鎌倉府のお墨付を貰って初めて縄張りの正統性が周囲の勢力認められた。

又各坂東武者の間には、血縁関係や、縄張り争いの因縁が合ったりその関係性は複雑だが、権鎌倉より認められた権威の正当性(由緒)は非常に大事にされたので何やかんや言っても鎌倉府は大事にされた。

鎌倉時代は執権北条家が、関東の御家人をしっかり統制していたが、室町時代になると、幕府が京都室町に移ってしまい、幕府の関東出張所として鎌倉府が置かれたものの、鎌倉府トップ「鎌倉公方」、補佐「関東管領」、関東有力御家人の思惑がばらばらだったので、それぞれが独自の利益の為に動き出し、1450年頃になると統制が取れなくなり関東は1467年の応仁の乱に先駆け「享徳の乱」の勃発により、西日本に先駆け戦国時代に突入した。鎌倉公方を追いかけると崩壊の過程が判るので歴代の関東公方(将軍)を追いかけてみたい。

1.鎌倉公方

 まずは関東公方の源流「鎌倉公方」だが、1349年に関東10か国を支配するために、足利尊氏の四男「足利基氏」を鎌倉に派遣し、補佐役として「関東管領」上杉氏(足利尊氏の母方の家)を任命して発足した。京都の足利幕府の支配力はそれほど大きくはなかったので、関東10カ国の武士のまとめ役として身内を置いたのが始まりだ。とは言え、鎌倉府が京都の命に背いて暴走しないよう、関東管領(当初関東執事)をお目付け役として鎌倉公方の補佐として配置した。戦国武将として有名な「上杉謙信」も関東管領の職を譲り受けて、関東の武家政治に介入している。

鎌倉府の勢力範囲

 鎌倉府の勢力範囲は、甲斐、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、安房、上野、下野、常陸の10か国であり、信濃(長野県)、駿河(静岡県)までは京都の室町幕府の支配権だったのでこの辺りが勢力の境界線となっていた。駿河には室町幕府「足利家」の親戚筋である今川家があったので、京都から関東をけん制する場合たいてい、今川家を介して鎌倉府に働きかけ(場合によっては武力介入)を行うことが多かった。関東10か国の武士としては、鎌倉に幕府(みたいなもの)があるのは関東武士としても収まりが良かったはずだ。鎌倉時代以来、関東の政治には京都に介入させないぞという意識は定着していたので。

初代基氏の頃は京都と良好だったが、時を経るにつれ、京都の幕府と鎌倉公方は関東の支配権を巡りだんだんと仲が悪くなっていく。

第二代鎌倉公方「足利氏満」は当初京都と仲良くやっていたが、既に京都に反旗を翻そうと画策したが、関東管領「上杉憲春」が諫死した事により取り止めとなった。更に北に勢力を拡大するために、陸奥、出羽の国に息子を派遣している。後述の稲村公方、笹川公方参照下さい。

第三代鎌倉公方「足利満兼」の代では西国の雄「大内義弘」と組んで幕府を攻めようとするが、大内義弘の戦死により頓挫している。京都足利家と出自差が無い「足利尊氏の直系筋」のでスキあらば幕府に取って代わってやる!と倒幕の気持ちを隠していない。足利幕府も力ある者が政権を勝取るという武家政権だなと改めて感じる。。

そして第四代目鎌倉公方「足利持氏」という、京都の支配を嫌う、我こそが将軍に相応しいと強く願う我の強い人が現れた事で、亀裂が決定的となる。持氏は自分が室町将軍に成りたかったので、「足利義教(くじ引き将軍)」の将軍就任に反対した。

足利義教の方も我こそが神託を得て将軍に選ばれし者で歯向かうものは許さん!と言うことで対立が始まった。持氏の息子義久の元服時に将軍の名前の一文字を貰うという代々の慣習を破ったことにより、幕府と決裂し朝敵となった。

幕府の討伐令を受けた「関東管領 上杉憲実」に1439年に攻められ、持氏と息子義久が自害したことにより、鎌倉公方は事実上終りを迎えた。これが関東戦国の始まりとなる。応仁の乱より半世紀早い戦国時代突入となる!

鶴が丘八幡宮拝殿(鎌倉府所在地)

歴代鎌倉公方

氏名在位補佐役(関東管領)エピソード
初代足利基氏1349-1367上杉憲顕、斯波家長他美食家の趣味人だったが、南北朝の争いや越後支配権、北関東のごたごたに巻き込まれていく
二代足利氏満1367-1398上杉憲顕、上杉憲春室町幕府「足利義満」時の康暦の政変に首を突っ込もうと試みるが上杉憲春の諌止にて挙兵を諦めた。東北「陸奥、出羽」の支配も京都に依頼され、「稲村公方」として息子を派遣するが、地元勢力の反発が強く支配はうまくいかなかった。
三代足利満兼1398-1409上杉憲定1399年に「陸奥、出羽」の支配を正式に室町幕府に承認されたので、弟の満直を「篠川公方」として陸奥に派遣するが、伊達政宗「有名な方の先祖」の反乱に会って自然消滅した。
四代足利持氏1409-1439上杉憲実足利義教の将軍就任に反発したことにより京都と対立した。当時の関東管領「上杉憲実」よりいくども諫められるがいう事を聞かず、結果幕府の命令にて上杉憲実に討伐される。関東に戦国時代を呼んだ張本人となる。

2.古河公方

 4代目鎌倉公方「足利持氏」が6代目将軍「足利義教(くじびき将軍)」の将軍就任に反対したことに端を発し、関東管領と関東の諸将を巻き込んで軍事対立に発展する。時の関東管領「上杉憲実」は口を酸っぱくして、京都に従うよう助言するが、持氏は聞く耳を持たず、義教の討伐命令により上杉憲実に襲撃され自刃してしまう。上杉憲実は主君を殺してしまったことを悔やんで出家してしまう。<上杉憲実の記事はコチラ>

持氏の子「足利成氏」が父と兄のかたき討ちのため、関東管領上杉家と北関東で利根川を挟んで30年近く五十子の陣(武蔵北部)で争った。

五十子の陣の場所

北関東で対立している内に、幕府勢力が鎌倉を選挙したため、鎌倉に帰れなくなり、古河(現在の栃木県)に拠点を移つし、古河公方と呼ばれるようになった。腐っても足利家鎌倉公方本流の血筋ということと、古河近隣の結城氏、小山氏、簗田氏等近隣の豪族の支持を得て、古河公方は5代続くようになる。

古河公方/堀越公方の地図

しかしがお約束の様に、古河公方も分家が出来て内部抗争を始める。三代目古河公方「足利高基」の弟「足利義明」が後述の小弓公方として独立する。

 末期は北条家の嫁を貰い外戚「傀儡」化されて北条家に取り込まれてしまうが、5代目足利藤氏の死(1583年)により、男子の跡継ぎがおらず姫が継いでいたところ、小田原攻めで秀吉が関東に来た際、秀吉の命で、小弓公方の元に嫁ぎ、「喜連川藩」として後世に存続することになる。足利家が高家として江戸時代に残ったのは面白い。流石の徳川家も喜連川に対し参勤交代を強制しなかった。

3.稲村公方

3代目鎌倉公方の「足利満兼」の弟、四男「足利満貞」を1399年〜1424年間、陸奥国を統治するために、陸奥国稲村「福島県須川市」に派遣したことにより稲村公方と呼ばれることになった。陸奥では伊達政宗(戦国時代の有名人じゃない方)の反乱を抑えるために派遣されたが、後ろ盾の犬縣上杉家が、上杉禅秀の乱で敗れたため、稲村公方の権威が落ち、陸奥国をまとめられなくなり、鎌倉へ帰還した。力も権威も無くした名ばかり将軍など在地勢力に取っては目障りなだけだったのだ。

当時の鎌倉公方である、甥の「足利持氏」に頭を下げ、持氏の与力となったが、上杉憲実に攻められ鎌倉で自刃した。稲村公方は一代限りの公方となった。

4.篠川公方

3代目鎌倉公方「足利満兼」弟である、次男「足利満貞」が同じく陸奥・出羽国に統治を広げるために、稲村公方よりやや北の方の陸奥国篠川「福島県郡山市」に1399年〜1440年に派遣されたことにより、篠川公方と呼ばれるようになった。

足利満貞は、その後鎌倉公方と対立する様になり、京都の足利義教と手を組んで、犬懸上杉家の後ろ盾で独立を保ったが、上杉禅秀の乱で後ろ盾である犬懸上杉家が消滅してしまう。

力を失った篠川公方に対し、結城合戦がきっかけで北関東・陸奥の豪族が勢いを増し、周辺豪族により襲撃され、足利満直は自刃することになった。稲村公方とは逆に、反鎌倉府の公方として生き残りを図ったが、結果は稲村公方同じく一代限りとなった。関東戦国期らしい仁義なき最後だった。(どちらに付いても生き残りルートは力無かったようだ。力がないと足元を見られて、終わるしかなかった。。)

5.堀越公方

 古河公方「足利成氏」の対抗馬として鎌倉公方になるべく京都より7代将軍足利義政の弟、足利政知(僧侶より還俗)が派遣されたが、権威が足りず鎌倉入りが関東諸将に認められなかった。そのため伊豆堀越に留め置かれたため堀越公方と呼ばれるようになった割と可哀そうな経緯がある。伊豆半国を精いっぱいの勢力範囲として頑張っていたところ、戦国の風雲児「北条早雲」に息子茶々丸が攻め滅ぼされてしまい、あっけなく幕を閉じた。

6.小弓公方

 古河公方の分家「足利高基」の子「足利義明」が、真里谷武田氏の傀儡として、上総で勢力を拡大し小弓公方と呼ばれることになった。勢力拡大を北条家に警戒され「第一次国府台合戦」で、北条氏康と激突するが、味方の真里谷武田、里見家の救援をあまり得られず、義明は戦死してしまう。義明の遺児は里見家に落ち延びるが、小弓公方は事実上消滅した。秀吉の命令により里見家に逃げた子孫が、古河公方の姫を娶り、江戸時代、喜連川藩として存続することになり、無事幕末を迎える。

感想

関東戦国時代は控えめに言ってカオスだ。鎌倉公方と京都の幕府は基本仲が悪いが、味方であるはずの関東管領上杉家と戦ったり、仲直りしたり、そのはざまで各家の分家と本家が利害により敵に廻るため、このように6か所も公方が出来る羽目になるのだ。全く室町時代らしい、仁義なき戦いだ。

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