譜代・外様大名を問わず、多かれ少なかれしくじりはつきものです。
小田原大久保家
徳川四天王の次に有名な一族に小田原大久保家があります。
初代小田原藩主・大久保忠世は情に厚く、武勇にも優れ、好きな方も多いのではないかと思います。
三河松平清康(家康のおじいさん)時代から、大久保一族は、良い時も悪い時も忠義を尽くしたと言われています。
そんな徳川家の譜代大久保家ですが、2代目藩主「大久保忠隣」がやらかしました。
大久保忠隣のしくじり
しくじり度:★★★(役員→課長)
しくじった人:大久保忠隣(大久保忠世の長男)
ことの顛末:忠隣の長男が若くして亡くなった事を嘆き、公務をバックレ寛永寺に勝手に引き籠もった。これが家康・秀忠の逆鱗に触れ井伊家の預かりとなった。これがきっかけで大老家になれない家(役員待遇がはずれた)になった。
忠隣の処罰原因は与力で金山奉行だった大久保長安の不正蓄財や、大久保家と繋がりの深い本多正純(本多正信の子)の権勢を削ぐ為など諸説あり。(正確な理由は不明である)
大久保忠隣の胸熱エピソード
三方ヶ原の戦いの際、大久保忠世が息子忠隣にお前も俺の息子なら死ぬ気で殿を守れと言った薫陶により、家康が武田信玄に負けへろへろになり、逃げる味方も多い中、忠隣が浜松城まで家康に付き添って無事帰参を果たす。
大久保忠世の兄弟
大久保忠世の兄弟には徳川譜代家臣として活躍した武将は非常に多い。
- 長男「大久保忠世」情に厚く、信長・秀吉から褒められる程の剛の者。人情家で忠義に厚い。三河一向一揆で敵対した「本多正信」の帰参も取り成した。小田原征伐では、秀吉にお昼をご馳走しなかったことが逆に褒められ、小田原城を貰うことになった。
- 次男「大久保忠佐」忠世に負けず劣らずの、剛の者で、忠世(マリオ)、忠佐(ルイージ)のコンビで槍働きブラザーズ。
- 八男「大久保彦左衛門忠教」三河日記の作者で有名、家康にも言いたいことは絶対言うマン。
大久保忠世の子供
- 長男「大久保忠隣」奉行になってからの活躍が目立つが、忠世(父)の薫陶を受け戦も強い。大久保家らしく、義に篤い風流人だったとも言われている。
- 四男「大久保忠成」天正年間に12歳で家康の近習となる。九戸政実の乱、第二次上田合戦、大坂冬の陣で活躍する。その後初代駿府城代となり長生きした。
巻き込まれちゃった人たち
里見忠康(安房里見二代藩主)
被害度:★★★★★(MAX)
顛末:譜代幹部「大久保忠隣」の娘を嫁に貰ったばかりに、安房16万石→鳥取の小藩(8千石程度)に改易される。実は4千石しかなく、なんやかんや不運が続いて100石まで減らされ藩消滅。。
反省点
いくら人望・実績のある会社幹部「大久保忠隣」であっても、現社長「秀忠」の言うことを聞かずに勝手に忌引き日数以上に無断欠勤してはダメ!
巻き込まれ事故は防ぎようがないが、普段から人としてまじめに暮らすしかないのか!?
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