板橋区の武士「志村氏(豊島氏分家)」

日本史

 

東京都で有名な戦国武将といえば、後北条氏、太田氏(扇谷上杉氏家宰)を思い浮かべますが、東京23区にも、豊島氏という池袋の地名になっている一族がかつて存在していました。更にその分家に、板橋志村氏という一家があり板橋区志村「三田線志村坂上駅」付近を根城にしていました。

豊島氏家紋 三つ柏

豊島氏は坂東八平氏「畠山重忠」で有名な秩父氏の庶流であり、豊島は、東京湾の芦原に、島の様に陸地が点在し、あたかも豊かに島がある様に見えたということに由来するらしい。。志村氏は板橋志村の熊野神社を居城にしていたそうです。熊野神社は切り立った高台に立っており、守るには良さげな感じです。地名が、領主の名前になるのは、歴史あるあるです。分家が増えてくるとどこの親戚かをすぐわかるようにするため、地名で宮崎のおばちゃんとかいうやつです。

又この近く「板橋区赤塚」に赤塚城もありますが、ここは武蔵千葉氏(千葉氏の分家)である「千葉自胤」が1460年頃築城したそうです。坂東平氏が板橋近辺を治めていたと思うと当たり前のことながら感慨深いです。

豊島氏は1300年代が全盛期といわれており、1400年代になると扇谷上杉氏の勢力が優勢となり上杉家家宰の太田氏の支配下になったようです。武蔵国の国人としては秩父氏の分家の「江戸氏」が有名でしたが、太田家に押されて、武蔵では力を失い、常陸の佐竹氏の配下の常陸江戸氏が有名として家名を残しています。

常陸 江戸忠通 信長の野望

その後、太田道灌が江戸城を作り、太田氏が江戸近郊の直接支配を始め、豊島氏と領地の境界が近くなり互いに牽制しあっていたところ、長尾景春の乱で、豊島氏が景春側に着いて敵となったため、太田道灌に攻められ、敗走したことで豊島氏「志村氏」の一族は歴史から消えています。俗にいう「江古田・沼袋の戦い」です。

どうやら豊島氏の奥方が、長尾景春の奥さんの縁者(妹)とのことで、つてを頼って北に敗走したようです。

道灌が亡くなったあと後北条家(北条氏綱、氏康)が支配を広げてきて、川越野戦を機に扇谷上杉家(太田家)を追い出し、後北条家の領地となり、秀吉の小田原征伐まで支配が続きます。

で、結局好きな東京の戦国武将って誰やねん?といわれたら、太田資正「北条絶対殺したいマン」と北条氏康「鉄壁のガードで絶対殺されないマン」です。

太田資正北条氏康
太田道灌のひ孫北条早雲の孫

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