小説「小江戸のお栄」第一話 小江戸の鼓動

歴史小説「小江戸のお栄」

江戸庶民の文化が繁栄した寛政の初め(1786年)十代将軍「徳川家治」が49歳で死去した。これに伴い、家治を支え権勢を振るっていた老中「田沼意次」が失脚した。

後を継いだ「松平定信」は質素倹約を美徳とし、江戸庶民が贅沢をすることを良しとしなかったので、派手な美人絵や役者絵は売りにくくなった。

が田沼時代で目の肥えた江戸市民は、艶のある浮世絵(今でいうグラビア雑誌的なもの)を買いたいという欲求を抑える事は出来なかった。

浮世絵の世界では鳥居派、勝川派、歌川派等、等々の流派が覇権を競い合っており、版元の思惑も交え、さながら戦後時代・群雄割拠の様相だった。

勝川派 勝川春章歌川派 歌川豊国喜多川歌麿葛飾北斎
鳥居派 鳥居清長歌川派 歌川豊国北斎・応為葛飾応為
江戸期の浮世絵の流派
東都名所 両国回向院境内全図 歌川広重 天保13年(1842)

葛飾北斎は、当時一番人気の勝川派に入門し、勝川春朗として、売出し中の30歳手前の頃だった。

北斎の嫁が妊娠し、臨月となった為、江戸の本所(現葛飾区)、回向院(明暦の大火を弔うため建立)にほど近い隅田川の川っぺりの長屋に嫁のお産のために引っ越してきた。

四畳半の二間には、北斎一家「北斎、嫁、次男多吉郎」が暮らしており、この狭い長屋が北斎個人の仕事場と住居を兼務した。

北斎は、弟子を一人取っており、絵師見習いの辰治は毎日三ノ輪から6キロ歩いて両国橋を渡って毎日のように両国の北斎の長屋へ通っていた。

夏も盛りの頃、妊娠した北斎の嫁はいよいよ臨月となり、体に不釣り合いな程ぼってりとした腹を抱え、煎餅布団の上で嫁が団扇を力無く扇いでいた。

そんな嫁の横で、北斎は仕事に夢中で見向きもしなかった。

次男の「多吉郎」が見かねて介抱する。

「かあちゃん大丈夫かい?もう生まれそうかい?」

嫁は「もうすぐ産まれそうだ。長屋のお隣さんからお湯もらってきておくれ、、」

というのが精一杯だった。多吉郎は急いで長屋のお隣さんを呼んできた。

「辰治! 産婆ぁ呼んで来い!!」

ようやく北斎が筆を止め、辰治に声を掛けた。

辰治は深川本所で評判の産婆のところに走った。

半刻(1時間)もせず、辰治が息を切らしながら、産婆さんを連れ帰って来た。

お隣さんは、安産の御札を握らせて嫁を熱心に介抱していたが、頃合いを見て湯を沸かしに走った。

江戸時代のお産はまだまだ母子共にリスクを伴うものであり母子共に生き死の掛かった一大イベントだった。

赤子「後のお栄」の頭が大きく、なかなか産道を通らずに嫁がいきみで苦しんでいた。

産婆は落ち着いた様子で、嫁に息を吸ったり吐いたりさせた。

とその瞬間、慣れた手つきで赤子の頭をぬるっと一気に引き出し、嫁が

「う、うーーーん!」と悲鳴を上げた。

直後「おぎゃーー!、おぎゃーー!」と元気のいい赤子の声が上がった。

「お母さん頑張りなさったね。」

さっぱりした表情をした産婆さんが、そそくさと帰り支度を始めた。

「世話になったな。婆さん。」

お代として二朱銀(約五千円)を無造作に渡すと、満足気に「また呼んでおくれ」とお辞儀し産婆さんは帰っていった。

疲れ切って倒れ込んでいる嫁の腕にはピンク色をの逞しい縮れ毛の赤子が、早速オッパイを吸っていた。

これが「お栄」のちに、日本初の女性画家(表向きは北斎筆)であり、北斎の右腕を務めることになる「葛飾応為」の誕生であった。

この当時女性で画家として生業を立てたものは誰一人おらず、何の因果で、お栄が離婚してまで絵描きになる破目になったのかをつらつらと書いて見ようと、酔狂な令和人が頑張ってみることとする。

当時30歳の北斎はようやく名前が売れ始め、己の筆で天下を取ろうと動き始めた頃であった。

新進気鋭の天才画家、葛飾北斎が「勝川春朗」の名前を捨て自分の屋号で、江戸の画壇に颯爽と登場する時期に、お栄は生まれた。

お栄「イメージ図」お栄「性格」口が悪い

まるで、江戸が女性画家を欲しているかの様に力強く、お栄の心臓は鼓動を始めた。

第二話へつづく

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