南鐐二朱銀

日本史

 

初めに

江戸時代、江戸をはじめとする東日本では「金」、大阪・京都をはじめとする西日本では「銀」が取引で使用されており、交換レートが細かく変動したり、金貨・銀貨の質もまちまちでしたので、両替商を通じ手数料を払って、金・銀を交換する必要があったため大変に手間がかかるものでした。

旧南鐐二朱銀の発行

そこで明和9年(1772年)に金貨(小判1枚)に対し、南鐐二朱銀8枚を交換し、両替の手間を省こう(実際は幕府が改鋳益を上げようという裏の狙いもあったそうですが)として南鐐二朱銀が発行されました。

金と交換できる銀貨ということで、銀の含有率は98%と高く、現在の価値で5000円位で流通しました。

明和南鐐二朱銀

写真は明和期に発行された、旧南鐐二朱銀です。令和の今でも古銭ファンからの人気は高く、旧南鐐二朱銀は買い取り5000円、売り値1万5000円、鑑定書付き美品3〜4万円程で取り引きされている。ずっしりと重い銀貨の輝きには思わず引き込まれ、野崎コイン@中野ブロードウェイの古銭屋に買いに行きたくなってしまう。金貨銀貨が欲しくなるのは、人間の業だな全く!

南鐐二朱銀を両替商が有利になるよう、幕府が安く売り出したため、棒銀、豆銀等の秤り銀は徐々に駆逐されていった。純度の高い南鐐二朱銀の大量発行により銀相場が高騰したため幕府は1788年頃一時、発行を中止した。

新南鐐二朱銀「文政南鐐二朱銀」

1824年「文政7年」になると二朱銀の不足を補う事と、ニ朱銀を小ぶりにして更に儲けようとの狙いより、新南鐐二朱銀を発行した。10.2g→7.5gと小ぶりに鋳直したので、幕府財政は大いに潤った。幕末はこんな安易な事ばっかりやっていた。役人は楽な前列のある方にばかり流れるね。。江戸も令和も(^_^;)

江戸時代の貨幣単位

江戸時代の金貨の貨幣単位として、両⇒分⇒朱があるので、こちらも前提知識として説明したい。

小判一枚を一両「約4-5万円」とし、小判より小さい一部金貨、一朱金貨が江戸期に流通するようになりました。

1両 =4部 =16朱

といった4進法で金貨がまず、金座で発行される様になった。江戸では金貨が多く使われていたが、関西では銀貨が決済に多く使われていたので、商人が金貨、銀貨を頻繁に交換する必要があったので、両替商が交換の都度手数料を取っていたので庶民としてはこの手数料も馬鹿にならない負担となっていた。金、銀の決済レートも月々で変動していたので目端の利くものに取って交換時期についても、江戸、大坂の経済情勢を考慮しないと損をする事になるので、なかなか面倒なものだった。

江戸幕府がここに目付け、金貨、銀貨を両替無し「枚数で交換」で使用出来る銀貨を発行すれば便利でしかも金貨の品位を落とせば品位「金の含有率」を落とした分の差益を幕府財政に入れる事が出来るため一石二鳥とばかりに、金貨と交換可能な銀貨の導入を強力に勧めた。

両替商は自分達の既得権益が侵されるのでこれに激しく抵抗した。徳川吉宗将軍期の大岡越前守に対する両替商の打合せのボイコット騒動は有名だ。大岡越前が打合せに参加しない両替商を投獄すると言う伝家の宝刀を抜いて、押し切った。既得権益組の抵抗は何時の時代も激しい!遠山の金さんの気合勝ちなのか?両替商の面従腹背なのか判定は付けられないが、恐らくギリギリの落とし所で決まったのだろう。

庶民としても、何種類の棒銀、豆銀を持ち歩いたり、両替商で切って貰ったり金貨に交換しなくても、二朱銀一枚で山のような銅銭(200枚程度)を持ち運ばなくても済むため、便利になったのではないかと思う。

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