近藤勇と永倉新八の墓<JR板橋駅 1分>

雑談
DSC_0105
近藤 勇像

 JR板橋駅から徒歩1分、近藤勇と永倉新八の墓にお詣りした。

板橋区の寿徳寺さんがひっそり管理されています。

この付近は板橋宿の新政府軍の拠点に当となり近藤勇「大久保大和(捕縛時偽名)」を、新政府軍が捕らえて処刑した刑場に、新選組永倉新八が墓を造ったのが残ったそうだ。

近藤の漢らしさに感服した政府軍武士が、近藤を逃がそうとした所、新政府軍の土佐派「谷干城」が、多数の土佐藩士を新撰組に殺られた恨みを近藤に持っていたため、逃してはならぬ!と強く訴えた。その結果、武士としての切腹も許さず、この板橋で斬首された。

当初の墓石

写真は、処刑当時の墓石で明治9年に新選組の「永倉新八」が墓を新たに建てた。

池田屋騒動後は、近藤が俺一人の手柄で解決した!新撰組の局員はたるんでいると増長した事に対しに永倉は激しく対立した事もあったが、新選組の局長は、やはり近藤勇だ!

との想いが偲ばれます。

実際池田屋では、永倉は親指を負傷し、相手方に押し込まれており、他の隊員も負ける一歩手前だったところ、局長近藤が、一人獅子奮迅の戦いぶり相手全員を敵に回し踏みとどまっていたところ、土方他の隊員が駆け付け、無事池田屋騒動を納めたという顛末だったそうです。

 永倉新八の墓も同じ敷地内に、「蜂須賀正韶公爵」により、建立されていました。永倉は松前藩の上士出身のため、明治維新後は、北海道松前に戻り、苗字を「杉村義平」と変えて、新選組の活躍を偲ぶ活動をしています。

北海道を開拓した、蜂須賀公の繋がりで、局長と同じ板倉に、墓が建てられたと言われています。

永倉 新八の墓石

三鷹には、近藤勇、生誕地側の菩提寺「龍源寺」があるので、こちらも一度行ってみたい。\(^o^)/

府中大國魂神社にもね!

コメント

タイトルとURLをコピーしました