葛飾北斎の師匠「勝川春章」と「勝川春好」

日本史

葛飾北斎は10代で画家を目指し、18歳で勝川春章の門を叩きます。目の肥えた北斎が選んだだけのことはあり、当時は歌川派より人気のある江戸随一の流派でした。腕が認められ、19歳でデビュー作を出すことができました。

勝川派は宮川春水が創立した日本の浮世絵の流派で、宮川華水の孫弟子に当たる勝川春章が力士画、役者画、美人画が評判となり隆盛を極めます。それまでの画一的な役者画とは異なり写実的な画法で大衆の熱烈な支持を受けます。

「雪月花図」 春章筆。MOA美術館
初代中村仲蔵の斧定九郎。春章筆
「婦女風俗十二ヶ月図」のうち「五月(蛍火)」。春章筆。MOA美術館

さすがは、北斎の師匠ともなる勝川春章の精緻かつ大胆な筆遣いです。男らしい役者画から美人画まで自由自在な筆遣い・色彩美を感じます!見事ですね。

春章は勝川春好勝川春英をはじめとして勝川春潮、勝川春朗(のちの葛飾北斎)など多くの弟子を育てます。隆盛を極めた勝川派ですが、天明期1785年頃になると勝川春好、勝川春英に勝川派の長を譲ります。

勝川春好ですが、北斎の兄弟子として北斎と大喧嘩したエピソード(看板騒動)が有名ですが、本当のところは北斎の腕を買っており、互いに認め合った兄弟子・弟弟子だったと言われています。エピソードの真相は当人通ししか判らないことではありますが、春好が、北斎が内緒で受注した看板画の出来を咎め、北斎がこれを認め春好に謝ったのではないかと思います。

「中村仲蔵の石川五右衛門」春好筆。東京国立博物館
「達磨と遊女図」春好筆。東京国立博物館

 春好も春章が認めた代表だけに見事な腕前です。

実際の所、腕も人望があった春好は北斎が勝川派を抜けた後も北斎には目を掛けており、後に下の画をプロデュースしていたようです。

「青楼美人繁盛図」葛飾北斎他合筆。すみだ北斎美術館

画の一番上の男性が勝川春章で、一番下の首の曲がった女性を北斎が描いたとされています。春好さんの人の好さが伝わってきますね。。

小説「小江戸のお栄」(北斎先生の娘の話)も是非読んでくださいまし。

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